近藤勇と土方歳三、芹沢鴨との出会いとは?池田屋事件より前の新選組のお話(歴史ライター)

●近藤勇と土方歳三は、武士ではなく農民の出。土方の義理の兄が近藤のもとに通っていたことで出会った。
●近藤が師範を務めていた試衛館は天然理心流の道場で、そこには新選組の主要人物達もいた。
●江戸の生まれであった彼らが京都へ行くことになったのは、将軍の護衛のためという名目であった。
●一同は京都に残り、芹沢鴨と出会ったことで新選組という組織が作られていく。

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池田屋事件で有名になり、尊王攘夷派の志士達を取り締まり京都の治安を守ったことで知られる新撰組。以前より土佐藩の維新志士に興味があった私は、幕末の人物について調べていくうちに、彼らに対しても多大なる興味を持つようになりました。自分の好きな志士とは対立する存在でありながらも、やはり彼らの信念や生き方には強く惹かれるものがあったのです。気付けば、新選組のゆかりの地を訪ねるほどの熱量さえ生じています。

様々な媒体で取り上げられ、ファンも多い新選組ではありますが、池田屋事件より以前のことについて触れられる機会は意外と多くありません。彼らは、池田屋事件が発生するまでにどのような人生を送っていたのでしょうか。
当記事では、新選組が池田屋事件で有名になるより前のことを紹介したいと思います。

近藤勇、土方歳三の過去

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豪農の生まれであった近藤と土方

豪農の家の三男として生まれた近藤勇。試衛館という道場の師範を務めていた近藤周助に稽古熱心な様や度胸を認められ、養子となります。その後、近藤周助のあとを継いで師範となりました。
そして、土方歳三が生まれたのも豪農の家でした。彼は子供のころから「武士になりたい」と言っており、実家に伝わる「石田散薬」という薬の行商をしながら、各地で武者修行をしていました。

二人は遠い親戚関係にあった

近藤勇と土方歳三の出会いには、土方の姉の夫が近藤勇と義兄弟であったことが関係しています。その姉の夫は佐藤彦五郎という人で、近藤が師範を務めていた天然理心流の支援をしていました。土方は佐藤彦五郎の家によく出入りしており、そこから近藤と知り合うきっかけが生まれたのです。

多くの出会いが繰り広げられた試衛館

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沖田、山南、斎藤、井上との出会い

近藤が師範を務めていた天然理心流の道場、その名も試衛館。現在の東京新宿区・市谷の辺り、当時の江戸にありました。ここには、後に新選組で非常に重要な立場となる人達が食客や門弟として所属していました。
その筆頭が、新選組きっての剣の使い手であり、美男子であったとも伝えられている一番隊組長の沖田総司です。彼は肺を病んで新選組から離脱、若くして亡くなったことでも知られていますね。

そして、新選組では総長という役職となり、近藤や土方に継いで三番目に偉い立場であった山南敬助も所属していました。ただ、彼は池田屋事件より前に病気になり、あまり活動が見られなくなったこともあってか、一般的にはあまり名前が知られていないようです。
新選組では六番隊組長を務めており、剣の腕よりも人柄で新選組を支えていた井上源三郎も、試衛館出身です。他の隊士達よりかなり年上のイメージを持たれていることが多いのですが、実際は近藤より五歳前後上なのだとか。
人気コミックの実写映画化として有名な「るろうに剣心」にも登場し、最近になって晩年の写真が新たに発見されたことでも知られる三番隊組長の斎藤一も、試衛館にいました。彼については、現在も詳しいことはほとんど分かっていません。

新選組の仲良しトリオ、永倉、藤堂、原田との出会い

仲良しトリオとして語られることが多い、二番隊組長の永倉新八、八番隊組長で最年少幹部の藤堂平助、十番隊組長で槍の名手であった原田左之助の三人も、この試衛館時代からの付き合いです。
原田左之助はかなり短気で、喧嘩相手からなじられたことから本当に切腹し、その傷跡を自慢することもありました。彼も美男子だったと言われています。
藤堂平助は、新選組に伊東甲子太郎が加入してからは、彼の派閥に入るようになりました。最終的には近藤と反目するようになった伊東らと共に、「油小路の変」でかつての仲間であった原田や永倉を含む新選組に斬られてしまいます。

新選組のなかで最も高齢まで生きたのが、永倉新八でした。後に明治政府と対立したために悪者扱いされるようになった新選組の名誉が回復したのは、彼の尽力があったからだと言われています。私達が新選組のメンバーについて詳しく知ることができるのは、「新選組の名誉を回復する手助けになれば」という理由で、永倉新八が口述による回顧録「新選組顛末記」を残したお陰でもあります。もちろん、これは彼の記憶を頼りにしたものですので、本当に正確な記録とは言えない部分もあるでしょう。

京都に出てから池田屋事件が起こるまで

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浪士組の誕生と芹沢との出会い

1863年に徳川家茂が京都へのぼる際、その警護役として募集されたのが「浪士組」です。このとき、斎藤一以外の試衛館の主な人物は全員参加していました。これは、普段から近藤が武士に憧れ、「将軍のために何かしたい」という気持ちを持っていたことが大きいと言われています。

しかし実際には、浪士組は朝廷に尊王攘夷の意志を建白することが目的であったため、京都に到着すると江戸に戻ってしまう者と、京都に残る者とに分かれることになります。ある意味では、これが新選組ができたきっかけとも言えるでしょう。何故なら、浪士組に参加したことで、新選組の前身である「壬生浪士組」で最も重要とも言える人物、芹沢鴨と出会っているからです。

芹沢との確執

近藤達はもちろん京都に残り、それからは会津藩のもとで京都の治安維持が主目的となる壬生浪士組の結成を行います。せっかく将軍のために京都まで来て、何もせずに江戸へは帰りたくなかったのかもしれませんね。
その後は京都の街中を巡回したり警備したりしますが、このころに大きな力を持っていた芹沢鴨は近藤を蔑ろにしていたうえ、かなり乱暴な態度で問題を起こすことも多かったため、京都の住民からかなり嫌われるようになります。壬生浪士組内での評判も、決して良いとは言えませんでした。役職は近藤と同等ということになっていましたが、実質的には近藤よりも上の立場のように振る舞っていたとも伝えられています。

芹沢暗殺と今に残る刀傷

そんな芹沢を近藤達も疎ましく感じていたでしょうが、金策に困ることも多かったために広い人脈を持ち、実行力もあった芹沢のことを軽視することはできませんでした。地道に努力した甲斐もあり、ようやく働きぶりが認められると、「新選組」という皆さんよくご存知の名前を下賜されます。

すると、ここに来て近藤達は芹沢の側近であった新見錦を自殺に追い込み、芹沢も暗殺します。このとき、芹沢の愛人とも言われる「お梅」なる女性も一緒に斬られています。現在でも京都に残る八木邸では、このときにできた部屋の鴨居に残る刀傷を見ることができます。

池田屋事件が起こるのは、この芹沢暗殺の翌年です。

知れば知るほど面白い新選組エピソード

新選組の圧倒的な強さを世に知らしめることとなった池田屋事件。そこに至るまでの経緯も、そして以降の展開も、調べてみると驚くほどドラマチックな集団であることが分かります。

新選組の始まりとも言える試衛館時代のエピソードは、あまり紹介されることがありません。しかしながら、多くの主要人物達が集っていた試衛館にこそ、最も濃い新選組エピソードが詰まってると言えるのではないでしょうか。近藤の故郷である東京都日野市には、そんな試衛館時代の彼らを偲ぶことができる「日野市立新選組のふるさと歴史館」があります。機会があれば、是非一度訪ねてみて欲しい場所です。

この記事を書いた人

近藤勇と土方歳三、芹沢鴨との出会いとは?池田屋事件より前の新選組のお話(歴史ライター)

文月

ライター 兼 イラストレーター

大阪府出身、静岡県在住。親族が経営する飲食店のメニュー制作やサイト運営などを担当していたが、閉店によりライター、イラストレーターとして活動開始。
得意分野は歴史、映画、ペット、旅行。仕事だけでなく、人生においても色々なことにチャレンジしていきたいと思いつつ、限りある時間に悩む日々。
趣味はアメリカドラマ、映画、マンガ、本格ミステリ、旅行、歴史、神社巡り、ゲーム、謎解き、料理、裁縫など様々。

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