「ストレス社会」といわれる現代、ストレスを抱えることなく日々を過ごせている人はどれだけいるだろうか。仕事や学業、人間関係のトラブルはもちろんのこと、最近ではコロナウイルスの蔓延で思うような暮らしができず、不安や焦りに苛まれている人も多いのではないだろうか。
今から500年前、日本中で凄惨な殺し合いが繰り広げられた戦国時代に生まれながらも、長い目で見ればストレスとは無縁の人生を送った男がいた。その男の名は、今川氏真(いまがわうじざね)。彼は過酷な戦国の世を己の才覚一つで渡り歩き、身の丈に合った暮らしを模索することで幸せを手にしたのだ。
筆者は幼い頃から歴史に親しみ、戦国史の探究に15年以上の歳月を注いできた。この記事では彼の数奇な人生にスポットライトを当て、意外にも世渡り上手だった氏真の等身大の姿に注目することで、今を生きる私たちこそ知っておくべき「新しい生き方」の可能性に迫る。
氏真と華麗なる一族
天下に最も近かった大名、今川氏
各地の群雄が天下統一を目指した戦国時代、「天下に最も近い男」といわれた大名がいた。駿河(現在の静岡県東部)を中心に巨大な版図を築いた“今川義元”である。駿河は当時の首都である京都に近く、将軍や天皇とも頻繁に連絡を取ることができたため、義元の評判は日本中に広がっていった。
また、義元は「御一家衆」と呼ばれる足利将軍家の親戚筋にあたる一族であったことから、将軍の跡継ぎが絶えた際にはその地位を継ぐ権利を与えられており、名実ともに「天下一」の大名だった。氏真はその義元の跡継ぎ息子として、文字通り日本の頂点に立つことを約束された青年だったのだ。
「東海一の弓取り」と恐れられたその実力
今川氏の強さを示す象徴として「東海一の弓取り」という言葉がある。「弓取り」とは弓を手に取る人、つまり武士を表し、「東海地方で最強の武士」という意味だ。
ちなみに、東海地方には織田信長、徳川家康も本拠を置いていたが、この時は今川氏の強い圧力に抗いながら「何とか勢力を保っている」という状況だった。特に、家康は「今川先手衆」という今川氏の使い走りのような役目を負わされており、言うなれば家来も同然だ。
後世の英雄をもってして、歯が立たないほどの力を持っていた今川氏。しかし「驕る平家は久しからず」という言葉があるように、彼らの栄華にも終わりが訪れることとなる。
桶狭間に滅んだ東海の覇者
巨星墜つ、若草は散る
永禄3年(1560年)の夏、戦国の世に激震が走る。尾張国(愛知県西部)の田楽狭間で、今川義元が織田信長の攻撃を受け戦死したのである。これが有名な桶狭間の戦いだが、この戦いは信長にとっては躍進の、反対に氏真にとっては崩壊への第一歩となった。
事実、氏真は敗戦によって多くを失うこととなる。中でも痛手だったのは、家臣たちの裏切りだ。氏真の下を離れていったのは、徳川家康や本多忠勝、井伊直虎など大河ドラマでもおなじみの面々で、彼は金や領地には代えがたい若く優秀な人材をいっぺんに失ってしまったのだ。
決死の「都落ち」
そして、さらに悲劇は続く。盟友・武田信玄が弱体化する今川家を裏切り、駿河へ兵を進めたのである。父の死後も努力を重ねていた氏真だったが、信玄には勝てなかった。妻の父親である相模(神奈川県)の北条氏康を頼って落ち延びるが、この「都落ち」は彼の人生で最も困難な体験となる。
彼の苦労を伝えるエピソードをひとつ紹介しよう。ある時、氏康が信玄に「氏真夫婦は私の子どもたちだから丁重に扱ってほしい」と事前に断りを入れ、信玄もそれを承諾した。しかし、命令が行き届いていなかったのか、氏真たちは馬も与えられず小田原まで徒歩で行くことを余儀なくされたという。
家臣や盟友に裏切られ続けた氏真。お坊ちゃん育ちの彼にとって、その苦労は凄まじいものだっただろう。
戦国一の「おしどり夫婦」、氏真と早川殿
子宝に恵まれた関東での暮らし
北条家によって引き取られた氏真は、小田原郊外の「早川」という地に屋敷を与えられる。そこで妻との間に嫡男・範以をもうけた。また、その後も合わせて5人の子宝に恵まれたというから、氏真はよほど妻を愛していたのだろう。なぜなら、この時代、正室との間に子を成さないことがよくあったからだ。
余談だが、氏真の妻は屋敷地の名前から「早川殿」と呼ばれ、出家して「蔵春院」と名乗るまでこの名前が用いられた。
共に支え合う連理の絆
氏真と早川殿は、この時代きってのおしどり夫婦だったと伝わっている。『松平記』という書物には「氏真の命を狙う武田方の刺客に気付いた早川殿がいち早く船を手配し、夫を救った」という逸話が書かれている。
実はこのとき、武田は北条と同盟を結んでおり、彼女は実家の事情を優先させて氏真の首を差し出すことも可能だった。このエピソードから、早川殿もまた心から夫を大切に思っていたことがうかがえる。
天下人が認めた「文化人」としての才
信長にも披露した蹴鞠の腕前
苦労の果てに、やっと手にした安らかな生活。このまま静かな余生を過ごすかに思われたその時、氏真のもとに衝撃的な報せが舞い込む。織田信長が氏真を自身の主催する「蹴鞠会」に招待し、蹴鞠を披露するよう求めてきたのだ。信長は氏真にとって父の仇といえる存在だが、なんと氏真はこの申し出を受け入れる。
因縁の敵の前で蹴鞠を披露するのは、当時の人々からしても常軌を逸した行動だっただろう。この行動は人々に氏真の強烈な印象を植え付け、彼が「文化人」として新たな人生を送る上での大きな出発点となった。また『信長公記』によれば、信長は氏真からの贈り物を非常に喜んだとされ、氏真の「世渡り上手」な一面も垣間見える。
持ち歌は1,000曲以上!?「歌仙」氏真
氏真は蹴鞠だけに留まらず、歌人としても業績を残した。むしろ存命中においては、その名は優れた歌詠みを意味する「歌仙」として伝わっている。氏真は77年にわたる生涯で、なんと1,600首以上もの歌を詠んだというから驚きだ。その中でも特に秀でた一作は後水尾天皇の選歌と伝わる『集外三十六歌仙』にも選ばれ、皇室でも彼の歌は評判が良かったようだ。
ちなみに、寛政の改革を行ったことで知られる松平定信は「足利義政は茶道、大内義隆は漢学、今川氏真は歌道に優れたが、没頭したために家を滅ぼした。何事もほどほどが一番である」と言い残している。一見辛口な人物評にも思えるが、詩歌の才については「一流」であったことを匂わせているのが面白い。
氏真の生き様に学ぶ「サバイブスキル」
混迷の世に翻弄されながらも、己の才覚を活かして戦国を生き抜いた男・今川氏真。情けなくもたくましいその生き様を、彼自身の遺した歌が伝えている。
なかなかに世をも人をも恨むまじ 時にあはぬを身の科(とが)にして
あらゆる恨みや羨望を捨て、ただ平和な日常を過ごせることに感謝する。氏真の楽観的な考え方は、彼の人生に小ぶりではあっても美しい花を咲かせた。
現代人は、しばしば自分の幸せを他人と比較することで一喜一憂してしまう。しかし、果たしてそれは「心からの幸せ」につながるのだろうか。むしろ、虚飾に満ちた生活は自らの可能性を狭め、出会うはずだった喜びにもふたをしてしまうのではないか。
「作られた幸福」を盲目的に追い求める生活から離れ、身の丈に合ったライフスタイルを見つけ出す――氏真の歩んだ軌跡は、新たな生き方の選択肢を私たち現代人に教えてくれる。