独特な漢字表記、色彩表現の数々…森茉莉の名作『贅沢貧乏』が持つ3つの魅力(文学ライター)

●『贅沢貧乏』とは、文豪森鴎外の娘、茉莉の書いたエッセイである。
●茉莉は幼いころ裕福に暮らしたが、2度の離婚を経て貧乏生活となる。
●昔の豪華な生活を忘れられない茉莉を救ったのは「想像」の力。
●茉莉は想像の力によって古びた部屋を豪華絢爛で優美な部屋へと変えていく。
●『贅沢貧乏』には「言葉選び」「色の表現力」「インテリア」の3つの魅力がある。
●贅沢とは、高価なものを持っていることではなく、贅沢な精神を持っていることである。

古本屋で美しい装丁に魅入られ手にしたのが、私と『贅沢貧乏』との出会いです。
当書籍の著者である森茉莉は、裕福な家に生まれながらも後に貧乏となってしまいます。昔の豪華な生活が忘れられない彼女は古ぼけたアパートの小さな部屋で「想像」という名の魔法をかけ、色褪せた壁掛けをゴブラン織のタペストリーに、胡瓜の皮を極上のサラダにと変えて楽しみました。

初めて読んだときから茉莉の世界観に虜になった私が、ひとつひとつの言葉選び、漢字表記にまでこだわった美しい文章を引用しながら「贅沢貧乏」の魅力をたっぷりお伝えします!本好きの方はもちろん、あまり読書をしない方もきっと読んでみたくなるはずです。

文豪・森鴎外の長女である森茉莉

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明治36年、東京千駄木にて父である文豪森鴎外と母・志げの長女として生まれた茉莉。裕福な家庭で身の回りの世話はほとんど女中が行い、幼いころは茶碗と箸以外手に持ったことがないというほど溺愛されて育ちました。
16歳で結婚して夫の渡欧先であるパリへ渡りますが、異国の地で愛する父鴎外の訃報を知り、この死別体験が多くの作品で父との思い出を美化するきっかけとなります。

帰国後に24歳で離婚し、27歳のときに再婚するも僅か1年で再び離婚。実家や親類の家を転々としたのち、48歳から80歳までを世田谷区の倉運荘アパートで、心不全のため亡くなる84歳までを同区のフミハウスで過ごしました。

作品の多くを倉運荘アパートで執筆し、昭和35年に発表した『贅沢貧乏』もその部屋で生まれました。当作品の主人公「牟礼魔利(むれマリア)」は茉莉自身で、魔利の住む古い木造アパートの8畳間は、作品内では貧乏を感じさせないヨーロッパの広くて豪華な部屋のように描かれています。

『贅沢貧乏』が持つ3つの魅力

【魅力1】ヨーロッパ仕込みの美しい言葉選び

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茉莉は自身の作品を「Belles lettres(フランス語で美文学、純文学)」「随筆小説」だと言っています。『贅沢貧乏』はエッセイとして扱われていますが、エッセイの枠を超えて実に文学的で濃厚な文章を持っています。その秘密はヨーロッパで培った感性、表現力と、茉莉が持つ美しい言葉への思い入れであると言えるでしょう。

●漢字表記

森茉莉の作品を開いてまず気付く点は、漢字の多さです。改行の少ないその真っ黒なページを見て本を閉じてしまった人も少なくないでしょう。茉莉自身もエッセイ『日本語とフランス語』のなかで「漢字が好きで、複雑を極めた、劃の多い漢字に底知れない魅力を感じている。(中略)支那から来た漢字の美しさと、日本で生れたひらがなのなよやかさは感動的である。」と述べています。

「燐寸(マッチ)」「牛酪(バター)」「瓦斯(ガス)」など……茉莉は漢字そのものにも美しさを求めていたのでしょう。

●ルビ

上記でお伝えしたように、こだわりの漢字をふんだんに使っている茉莉ですが、そのこだわりはそこだけではありません。「美術館」を「ミュゼ」と読ませたり、ほかには「格子(チェック)」「燭台(スタンド)」「肉汁(スウプ)」と読ませたりと、多くの漢字にはあえて英語やフランス語でルビがふってあります。
作中では「(上略)知っているだけの仏蘭西語や伊太利語を総動員させる癖がある」と記しており、茉莉のヨーロッパへの憧れが言葉の読み方に対しても表れていると考えられます。

【魅力2】色の表現力

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『贅沢貧乏』で茉莉は、魔利の現実の世界と空想の世界を色によって書き分けています。現実の世界、貧乏な節約生活の場面では色の描写がほぼ無いのに対し、魔利の空想の城であるアパート内の場面では豊かな色彩表現がなされています。茉莉の想像の視点によって曇った空瓶、枯れた花、汚れた壁が幻の豪華となって映し出されているのです。
作中では、以下のようにして色を表現しています。

●「赤」の表現

濃紅色、黄みを帯びた薔薇色、甘く白い紅、柔らかな煉瓦色、物憂い薔薇色、血が滲む薔薇色、茜色の濃淡、暗い紅色、ロオズ色、淡紅色、薄紅、ピンクがかった小豆色、薄薔薇色

●「黄」の表現

檸檬の黄、汚れた淡黄、淡いカナリア色、黄薔薇色、ミルクを含んだ橙(オレンジ)、黄金色、鈍い黄金色、淡黄(クリイム)色

●「緑」の表現

橄欖色、冴えた薄緑、暗い緑、水に溶かしたような緑、薄緑、濃く暗い緑、藺草色

●「青」の表現

薄青(ブルウ)、水灰色、濃紺

●「紫」の表現

葡萄酒を薄めたような色、柔らかな紫、菫色

●その他の色の表現

鋼色、象牙色、濃度のある牛乳の白、渋い茶、胡椒色、ココアの茶、消炭色、小豆色を帯びた灰色

作中における「薔薇色」の意味

赤に「薔薇色」が多いことにお気付きでしょうか。茉莉はヨーロッパの豪華な部屋に飾られた薔薇の赤のイメージを、自身の部屋の色褪せた布団の縞模様や硝子の壺に活けた花々に映したのだと思います。
「ミルクを含んだ橙のアネモオヌ(アネモネ)」「水に溶かしたような緑の分厚な洋盃(コップ)」「ピンクがかった小豆色のスカアト」など、色彩だけでなく質感までが手に取るように伝わってきます。

【魅力3】魔利のインテリア

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空瓶の一つ、鉛筆一本、石鹸一つの色にも、絶対にこうでなくてはならぬという鉄則によって選ばれている」という、魔利のこだわりの室内をご紹介します。

●花と硝子

魔利の部屋には硝子の瓶がいくつも並べてあり、朝昼晩それぞれの光を透かして魔利の目を楽しませています。硝子の壺には思い思いに伸びるアネモネの花々が、硝子のミルク入れには枯れた花が差してあります。
想像の魔法にかかれば、一見するとがらくたに思えるアリナミンの小瓶も、黄金色の口金の宝石のような瓶に。枯れた花は黄ばんで脆くなったダンテル(レース)色の花弁と、イタリアの運河の色をした萼(がく)と茎に……。

●タオルの色

魔利はタオルも夢のような色を取り揃え、掛ける順番にもこだわりを持っています。『贅沢貧乏』の翌年に発表した『紅い空の朝から……』によると、「カナリア色を含んだ薔薇色の濃淡の左端から順に、稀薄な水色、ミルクの入った青竹色、淡黄地に緑の花のあるもの、橙黄の大型タオル、濃紅色の線の入った白地」という具合。
寝台の背に少しずつずらして掛けた幾枚もの安物のタオルを、豪華な天蓋付きベッドのカーテンに重ねていたのではないかと思います。

●書棚

灰色の背表紙に黒い文字、黄ばんだ表紙、深い紅と白の地に黒い文字。これら魔利の書棚に並ぶ古本は、魔利の注文にかなった色調で並んでいます。次は深い紅の隣に冴えた薄緑が欲しいと物色中。本の並べ方でも色の取り合わせを考えて美を追究しています。

森茉莉から学ぶ「本物の贅沢」

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作中で茉莉は「本当に金を使ってやる贅沢には、空想と創造の歓びがない」、また巻末収録の『ほんものの贅沢』では「贅沢というのは高価なものを持っていることではなくて、贅沢な精神を持っていることである。容れものの着物や車より、中身の人間が贅沢でなくては駄目である」と書いています。

魔利の理想とする胡桃の寝台やお洒落なワンピース、菫の匂いの石鹸などは、どれもお金が無いために買えません。しかし、想像力さえあればどんなものも、また自分自身さえも理想の姿に変えることができるのです。
お金の無い状況でも想像力を無限に使って、魔利の目だけに映る幻の豪華を創り出し、粗末なアパートで満足に暮らした森茉莉。中身の贅沢な人間とは、彼女のような人を指すのだと私は思います。

魅力がたくさん詰まった『贅沢貧乏』、是非1度読んでみてくださいね。

この記事を書いた人

独特な漢字表記、色彩表現の数々…森茉莉の名作『贅沢貧乏』が持つ3つの魅力(文学ライター)

花めがね

ライター

兵庫県出身・在住。山の麓で夫と猫と一緒に暮らしている。
趣味は読書、音楽鑑賞、料理。
よく読む本は谷崎潤一郎、森茉莉、宮沢賢治、林望、アガサクリスティ。
よく聴く音楽はヘニングシュミート、スロージャズ、ドビュッシー。
よく作る料理は和食を基本にした家庭料理。
その他気になるものは何でも読み、聴き、作る。
得意分野は「文学」「音楽」「猫」「植物」「料理」「認知症ケア」。

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