歴史上の有名人、人気のある人物には総じて華があり、そのドラマティックな生涯に憧れる人は多い。しかし、同じ時代の脇役たちの人生にもドラマはある。歴史のメインキャラクターたちとは異なる彼らの立ち位置を知れば、一面的にしか見えなかった歴史を立体的にイメージしやすくなることがあるのだ。
例えば平安時代。源氏物語に描かれたようなきらびやかなイメージの反面、そこにも他の時代と変わらぬ権力や富を巡る陰謀や策略があった。そんな中、自己主張の強い貴族たちに混じって不思議な透明感をたたえた男がいた。和歌が嫌いで非社交的だが、仕事は人一倍できるうえにすこぶる達筆、という変わり者が。
その人物こそ、平安中期の能吏、藤原行成(ふじわらのこうぜい)である。彼の存在を知る前と後では私の時代に対する認識の仕方が変わった。藤原一族内で一度は忘れられかけた家系出身の行成はチャンスを掴んで出世し、没落貴族の汚名を見事返上する。だが、時の権力者藤原道長のために非情な任務さえこなした辣腕官僚行成にも、隠された誠意と人間らしい素顔があったのだ。
今回は、それらを紹介しながら私が味わった一種の爽快感を共有し、あなたの歴史観をもう少しだけ立体的にしてみたい。
没落貴公子が大抜擢で殿上デビュー
寂しい出発点
藤原氏嫡流家系の藤原行成(をふじわらのこうぜい)は平安中期天禄3年(972年)に誕生した。祖父は円融天皇の摂政であり太政大臣の伊尹(これまさ)、父は中古三十六歌仙の一人で、容姿秀麗で評判な右少将義孝(よしたか)という恵まれた家筋だ。
ところが、誕生した年に伊尹が他界、3歳の時には義孝も病没。みるまに行成の家は没落し、朝廷と藤原氏一族における権勢は傍流だった藤原道長の家系へと移り、行成は不遇のスタートを切る。
生涯を決めた絶好のチャンス
ぱっとしない青年行成に大きなチャンスが到来した。源俊賢(みなもとのとしかた)が後任として行成をエリートの登竜門である蔵人頭(くろうどのとう)に推挙したのである。まさに大抜擢。彼はその激務と言われる役職で精進し、一条天皇の厚い信頼を受ける側近となる。
ぐっと我慢のできる男、行成
あるとき行成は、藤原実方(ふじわらのさねかた)と和歌を巡って口論になり、怒った実方に冠を庭に投げ捨てられた。平安朝では人前で頭頂部をさらすことは恥辱であったが、慌てず冠を被り直した行成を見て一条天皇はいたく感心したという。
また、賀茂祭(葵祭)で運営監督だった行成一行を邪魔する狼藉者たちに対し、彼は対抗しようとする自分の従者をあえて止めさせた。自分が監督する祭で事を荒立てるわけにはいかなかったのだ。そんな行成の忍耐強さと冷静さは朝廷での信頼を勝ち得ていき、道長の目にも有能に映ったはずだった。
「私」を捨ててあえて道長の「影」となる行成の冷徹
書という芸に逃げない行成
行成は能書家でもあった。中宮定子を始め宮廷の人々は争うようにして彼の書を欲しがったという。道長には写本のために借りた「往生要集」の返却の際、「原本は差し上げるのであなたの写本を頂けないか」と言わせたほど。三蹟の一人として称される彼の書の素晴らしさはもちろんだが、注目すべきは書という芸に逃げずに能吏としても活躍したところにある。
ただし、蔵人頭になった行成はしばらく出世しなかった。仕事ができすぎて彼の後継となる人物が見つからなかったからだと言われている。
和歌も空気も読まぬ男
この男は少々人間関係に無頓着であった。業務上必要なときには女房たちの中で唯一親しかった清少納言を探し回って彼女とだけやり取りをした。大抜擢を受けた噂の蔵人頭行成はその血筋の良さと、美男の歌人義孝の息子という期待を裏切り、その愛想のなさに殿上の女房からの評判は芳しくなかった。
また、歌が苦手で職場の和歌談義においては、その場の空気を読まず、「さあ、よくわかりません」とだけ答えて場をしらけさせてしまったことも。そんなところが行成をよく分からない男にしてしまったようだ。
行成を利用するやり手道長
藤原公任(きんとう)、紫式部、安倍晴明らが活躍した時代、行成も冷徹に戦った。しかし、富と権力を併せ持った道長が「光」なら、後ろ盾のない中で努力を続ける行成は「影」。道長は天皇サイドにも厚く信頼されている行成を重要場面で賢く利用した。
まず、道長が天皇家との外戚関係を築くために中宮定子を差し置いて、自分の娘の彰子を一条天皇の后にさせたとき。そして、天皇と定子と間に生まれた第一皇子敦康(あつやす)親王ではなく、彰子との子である第二皇子敦成(あつひら)親王の立太子つまり将来天皇にさせることを画策したときである。
いずれも一条天皇の意向に反する難題だったが、道長の思うまま行成は天皇説得に成功する。行成は保身に走った冷酷な官僚だったのだろうか。
行成の秘めたる思いと「光」と「影」の最期
エピソードに見る「人間行成」
あの「枕草子」には、清少納言の問いかけに笑いながら冗談で答える生き生きとした青年行成が登場する。職場で使う風情のない事務用箋に本気とも遊びとも取れる恋文をしたためる彼と機知に富んだ清少納言とのやりとりなど、二人の恋とも友情ともつかぬ微妙な関係が作品に鮮やかだ。
また、行成は自分を蔵人頭に推挙しチャンスを与えてくれた源俊賢からの恩を忘れなかった。いつしか行成が彼の地位を越えた後も、その恩人の上座に座ることは決してなかったという。
悲しみもあった。寛弘5年9月に一条天皇と后彰子に道長の孫となる待望の敦成親王が誕生。同月、行成にも双子が誕生するが、まもなく二人は死んでしまう。親王誕生の喜びに湧く道長と、悲しみを抱えて職に励む行成の「光」と「影」。その死を事務的に綴る行成の日記「権記」の記録が痛々しい。
行成の誠意
一条天皇に深い信頼を寄せられていたはずの行成が、道長サイドの者として「道長の娘彰子との婚姻」、「敦康親王の皇位継承断念」など一条天皇につらい決断を要求した。その結果、一条天皇が本当に愛した定子の子である敦康親王は、政権の蚊帳の外で心細い思いをすることになる。
しかし、そこで行成が取った行動は、あえて敦康親王の家司となることだった。それは、彼を厚く信頼していた一条天皇に悲しい決断を迫ったことに対する償いにも見える。事実として行成は、敦康親王が亡くなるまでその役を務め道長その他の外圧から彼を守り続けた。そこには、行成が権力者道長にさえ譲れなかった天皇家への忠誠が現れていたのだ。
忘れられた「影」の死
万寿4年(1027年)12月4日、世間は大騒ぎだった。藤原道長が亡くなったのだ。そしてその影で亡くなったもう一人に注意を払う者はいなかった。その人物こそ藤原行成だ。「光」が消えた日、「影」も消えた。行成の人生を象徴するかのような偶然である。
行成の生涯が今に伝えること
決して饒舌ではなかった藤原行成だが、千年の時を耐えて残った記録が彼の人生を静かに語る。
逸話がある。幼い後一条天皇がねだるので人々が競って美しい金銀細工の玩具を贈る中、行成が手渡した物は一つの独楽。夢中になった天皇は他のおもちゃを全て箱にしまい、その独楽を一番のお気に入りとしたという――。
「権蹟」と称され、国宝として遺された数々の書、宮廷生活の表と裏を克明に記した著書「権記」と「新年中行事」を遺した藤原行成。現代のように自由な就業環境がなかった時代に、彼は朝廷から逃げず、物事の本質を見る目と誠意を持って職務を全うした。そこから見えるのは他人の目を気にせず、決めたことを貫いた男の強さと美しさではないだろうか。
<参考文献/参考URL>
倉本一宏著 全現代語訳 『権記』 上・中・下巻
繁田信一著 『殴り合う貴族たち 平安朝裏源氏物語』
『枕草子 現代語訳 30』
http://esdiscovery.jp/knowledge/japan5/makura030.html
『大鏡』
https://www.komazawa-u.ac.jp/~hagi/txt_ookagami.TXT