【ジョジョ】なぜ彼はラスボスになりえたのか?クィアの視点から考察する「吉良吉影」の恐ろしさ(マンガライター)

●『ジョジョの奇妙な冒険』第4部に登場する奇妙な男、吉良吉影。
●クィア。もともとは「風変わりな」「奇妙な」という意味である”queer”からきた言葉。広い意味ではセクシャルマイノリティの人々をすべて含むこともある。
●「自分が自分である」とアイデンティティを認めるとき、根底では「自分はクィアである=自分は他と違う」と認めることになる。
●吉良吉影は、自分を「規範」に落とし込もうとした。そのギャップを埋めるための行動や精神が、物語で見られる「奇妙さ」と「恐ろしさ」になっている。
●最終的に彼は「奇妙さ」を失い、ボスとしての立場を喪失したため「死」という形で物語から退場した。

連載開始30周年を迎えてもなお、絶大な人気を誇る『ジョジョの奇妙な冒険』。その中でも異色を放つラスボス、それが第4部に登場する吉良吉影です。長いジョジョシリーズの中で、個人的にとても恐ろしく不気味だと感じたのはディオやプッチではなく、4部に登場する吉良吉影でした。彼は絶対的なカリスマ性を持っているわけではありません。そして、声高に野望を掲げるわけでもありません。ただ平穏に生きたいと望み、ありふれた人生を送りたいと願っていました。

そんな、言ってしまえば「普通な」男がなぜ主人公たちの前に立ちふさがる、最大の敵になったのでしょう。そして彼の持つ「恐ろしさ」や「奇妙さ」はどこから生まれてくるのでしょうか。その「奇妙さ」を考えていく中で、一つの仮説にたどり着きました。それは、彼が抱く「普通」と読者である私たちが抱く「普通」が大きく異なっていたからです。
そしてそれは、ただフィクションの中でのみ見られる違和感ではありません。こうして生きている日常生活の中でも見ることのできる違和感でした。自分とは違う人に「奇妙さ」を抱き、そしてそれが差別やマイノリティという言葉へと繋がっていきます。吉良吉影に抱く恐ろしさを見ていくことは、つまるところ私たちの周りにある目に見えないマイノリティへと視線を向けることにもなります。

当記事では、「変態」とも訳される「クィア」という視点から、吉良吉影という男について分析してみることにしましょう。

吉良吉影という男

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荒木飛呂彦作『ジョジョの奇妙な冒険』の第4部にあたる「ダイヤモンドは砕けない」において、主人公たちの前に立ちふさがったのはあまりに「普通」で「ありふれた」男でした。吉良吉影というその男は、作中で以下のように説明されています。

“仕事は真面目でソツなくこなすが今一つ情熱がない男。悪い奴じゃあないんだがこれといって特徴のない影の薄い男さ”

 

(荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』 集英社文庫 コミック版 23巻)

また、より詳しいプロフィールとしては次のように説明されています。

“1966年1月30日 杜王町生まれ 集めたヤツの人物像は身長175 体重65 血液型A”

 

(荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』 集英社文庫 コミック版 24巻、p.254)

言ってしまえばありふれた、どこにでもいる、目立たない存在であることがことさら強調されています。また本人も以下のように述べており、「目立たない」ことを信条に生きていました。

“人前で「目立った行動」をすること……それはこの『吉良吉影』が最も嫌うことだ”

 

(荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』 集英社文庫 コミック版 24巻、p.149)

その一方で、彼の持つ性的嗜好はあまりにも「目立つ」ものでした。彼は女性の綺麗な手に異常なほどの執着をみせています。彼は殺害した女性の手首を切り取り、その手に声をかけたり食事を与えたりといった行動をさも当たり前のように行っていました。
また、彼は自分の爪の長さを細く測り、それらを数十年のあいだ保管していました。それは、彼の神経質で、常軌を逸した行動として強調されています。そして最後に、彼は「モナリザの手を見て性的興奮を感じた」ことをカミングアウトし、その性的嗜好が突然生まれたものではなく、幼い頃からずっと抱えていたものであることが判明しました。

クィアという視点

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日本ではあまり聞き馴染みのない「クィア」という言葉は、LGBTと並べられて使われることが多くあります。もともとは「風変わりな」「奇妙な」という意味である”queer”からきています。広い意味での「クィア」はセクシャルマイノリティの人々をすべて含むこともあります。もちろん個人を形成する一つの要素としてだけではなく、社会全体を指すこともあり、固定された概念がないことが特徴です。

もともとはヘテロセクシャルに対するアンチテーゼとして生まれた「クィア」という枠組みですが、狭い意味ではもう少し意味が変わってきます。その中でもミシェル・フーコー(1926~1984)の論は大きな影響を与えました。彼自身が同性愛者として苦しみを感じる中で、人生の最後に書いた著作が『性の歴史』です。そこには「規範的な法に当てはまらないものは排除される」と書かれています。ここでは、セクシャルマイノリティに対してのみ排除が行われるのではなく、社会や公といった大多数のものが作り上げた「規範」から外れたものが排除されると書かれています。

つまり、その「規範」が変われば排除の対象も変わり、それまで大多数だった人々もいつの間にか排除される側に回るかもしれないのです。そのように、流動的で多くの要素を含むクィアは、言ってしまえば異性愛や同性愛などを抜きにして、今ここに生きる我々すべてに当てはまる概念なのかもしれません。例えば年上を愛する人、例えば体重が重たい人を愛する人、既婚者しか愛せない人――。それらをすべて「クィア」であると、昨今の研究で語られることもあります。

私たちは「自分が自分である」とアイデンティティを認めるとき、そこの根本には「自分はクィアである=自分は他と違う」と認めることになるのです。

吉良の「恐ろしさ」と「奇妙さ」

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さて、吉良吉影の話に戻りましょう。彼のプロフィールは上述した通りです。彼が幼い頃から抱えてきた「奇妙な」性格は見ての通りです。それに対して吉良吉影は、どこまでも「規範」に収まろうとしていました。
自分が「奇妙な」性格であると気づいたとき、多くはそれを否定しようとします。そんなはずはない、そうあってはいけないと自己否定することが多いのです。しかし吉良は、原作の中でこう述べています。

“わたしは人を殺さずにいられないという『サガ』を背負っているが…………『幸福に生きてみせるぞ!』”

 

(荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』 集英社文庫 コミック版 24巻、p.220)

自分の持つ「クィア」とはかけ離れている「規範」に無理やり落とし込もうとする姿勢が、ここで見られます。彼自身は自分の中に「クィア」があることを認めていました。しかしそれを受け入れることなく、あくまで「規範」に収まろうとしていたのです。ここに歪みが生まれ、その歪みこそが吉良吉影の持つ「奇妙さ」と「恐ろしさ」でした。

結論

吉良吉影は(我々が皆そうであるように)クィアであるにもかかわらず、あくまで自分を「規範」に落とし込もうとしました。そのギャップを埋めるための行動や精神が、物語で見られる「奇妙さ」と「恐ろしさ」です。
しかし、彼は物語終盤で「クィアである」と自ら宣言しました。死の間際に「モナリザを見て性的興奮を感じた」と救急隊員の女性に伝えたのです。その行為を通して、彼は自分の口で自分の抱える「奇妙さ」を告白したことになります。それは人間としてはありふれた行為でしょう。自分の持つ「奇妙さ」を理解し、受け入れ、それも含めて自分であると新しくアイデンティティを形成することは何もおかしな話ではありません。
 
吉良吉影は、その行為を拒絶することで主人公たちの前に立ちはだかる敵になりえたのです。どこにでもいるような人間になってしまっては、物語の中で彼が存在し続ける理由はありません。そうして彼は「奇妙さ」を失い、ボスとしての立場を喪失したため「死」という形で物語から退場したのでした。

【参考文献】

・荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』 集英社文庫 コミック版 24巻
・荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』 集英社文庫 コミック版 23巻
・ミシェル・フーコー『知への意志 性の歴史』 新潮社 1986年
・ミシェル・フーコー『ミシェル・フーコー講義集成』『知への意志(1970-1971)』 筑摩書房 2014年

この記事を書いた人

【ジョジョ】なぜ彼はラスボスになりえたのか?クィアの視点から考察する「吉良吉影」の恐ろしさ(マンガライター)

結城紫乃華

ライター・小説家

福岡出身東京在住。
歴史学と言語学専攻、LGBT中心、文学なども嗜む文系女子。
セクシャルマイノリティポータルサイト「FREE!!」専属作家。

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