飽和状態のホラー界において、近年の一大ニュースとなった、“作家・飴村行(あめむらこう)のデビュー”。乱立する有象無象に食傷気味だったホラー好き達が度肝を抜かれた「粘膜人間」から数年。一人でも多く同志を増やすために、我々を惹きつけ続ける飴村作品の魅力を、今回は“笑い”という切り口から考察していく。
「いやいや、恐怖と笑いは真反対だろ。ホラーコメディなんてホラーじゃないぜ!」という本物志向の御仁もいるだろうが、それは全くの早計と言わざるを得ない。飴村作品はホラーコメディではなく、どこまでも純粋なホラーなのだから。
恐怖と笑いが「混在」するのではなく、恐怖と笑いが「イコール」になる全く新しい体験がそこには待っているのだ。知ってる人も知らない人も、ホラーの新たな世界を覗いていただければと思う。
※この記事はあくまで、ホラー好きに捧げるものである。「ホラーが得意じゃない」「ホラーはそんなに見ない」という方には、飴村作品を全く、これっぽっちも、オススメすることができないので、ご注意を。
ホラーと笑いの根幹は同じ?基準は「桂枝雀」にあり
さていきなりで申し訳ないが、まずはホラーと笑いの関係を明示したい。今日における大きな括りのホラー作品を定義したら、以下のような表現になる。
「消費者に対して恐怖を与えるもの」
本当に当たり障りのない表現だが、逆にこれ以外に言いようがないのがホラー。ホラー=恐怖。恐怖を感じているとき、安心しきっている人間は恐らくいない。何かに怯えている、常に緊張している状態が恐怖だ。つまり、ホラー=恐怖=緊張状態だと言えるだろう。
対して、笑いの定義は難しいが、落語家の桂枝雀が提唱した「緊張の緩和」という笑いの理論を引用したい。「人間は緊張状態から解放されたときに笑う」というもので、松本人志や千原ジュニアなどが影響を受けている。
真反対に思えるホラーと笑い双方に共通するワード「緊張」。ホラー作品では、同じ状況が続くと効果が薄くなり、飽きが来る。効果的な緊張を生むためには、断続的に緩ませて、新たな緊張を作ることが必要だ。いわば緊張の緩和は、ホラーの基本でもあるのだ。
ベクトルが真反対を向いているだけで、実際のところ笑いとホラーは、「緊張の緩和」という根幹を共有する不可分な位置にいるというのがお判りいただけたかと思う。
あくまでもホラー。ホラーコメディとの違いは「狙い」
では、ホラーコメディとは何なのか。例として映画『ビートルジュース』を見てみよう。
家に取り付いた幽霊、呼び出してはいけない存在、数々起こる怪奇現象など設定や背景はまさしくホラー。しかし、幽霊は全然怖くない、呼び出されたのは小汚いおっさん、怪奇現象も体が勝手に踊るくらい……起こる現象すべてに、コメディ的なオチが用意されている。つまり、笑い=緩和を起こすための緊張状態をホラーで代用するという手法が、ホラーコメディだと言える。
ホラーコメディはあくまでコメディだ。純粋なホラー作品には、当然だがオチなど用意されていない。先述のように、ホラー作品における緩和は緊張を強める効果をもたらすもので、あくまでも補助の役割。狙う結果が緊張か緩和かで、ジャンルが180度変わってしまう。
飴村行のデビュー作『粘膜人間』は、第15回日本ホラー大賞の長編賞を獲得した。
選考史上、最も物議を醸した作品だと言われている。選考委員の林真理子に「まるで悪夢のような拷問シーンが実に不愉快」とまで言わしめたまさに問題作だ。膨大な数のホラーに触れる選考委員が不愉快になる程、この作品はゴリゴリのホラーなのだ。もちろん、ホラーコメディなどでは決してない。
飴村作品は緊張の連続!変則的な恐怖が笑いを誘う
前置きが長くなったが、ここからが、飴村行の笑いの話だ。なぜ飴村作品に笑いが生まれるのか。
実は飴村作品には、緩和がないのだ。普通なら、一旦落ち着かせてから別の恐怖に移るところを、執拗に恐怖を上乗せして、緊張状態を作り出すという他に類のない作品の書き方をしている。先述のようにそれでは飽きがくるのだが、飴村行はその問題を「恐怖の種類を変える」ことで解決している。
『粘膜蜥蜴(ねんまくとかげ)』を例にあげよう。
同級生からの精神的抑圧、友人の事故死、死体の解体、ジャングルでのクリーチャー戦、部族からの拷問……こうやって羅列しただけでもお腹いっぱいの幅広さだが、これが圧倒的ストーリー構成で次々に押し寄せるのだからたまらない。
するとどうなるか。緩和という逃げ道がないからどんどん緊張のエネルギーが溜まっていく。逃げ場のないエネルギーが、ちょっとでも違うことが起こるだけで噴出しようとする。そしてついに、連続する種々様々な恐怖イベントが、少し笑えてくるのだ。「今こんなことが起こるの!?」とか、「いやそれはさすがにやりすぎだろ!」といった「もうやめてくれ」「許してくれ」というマゾヒスティックな笑いがフツフツと湧いてくる。緩和ではない場所に緩和を見出してしまうのだ。
極端に言えば、過度のストレスで笑いのツボを壊すのが、飴村作品における笑いのメカニズムなのである。
新作まで待てない!飴村好きにオススメな「ホラー」
さて、色々確かめたくなってきた方も多いかと思う。とはいえ、2017年9月現在で飴村作品は単著となると8冊しかないので、すぐに読み終わってしまうだろう。ということで、ここでは飴村好きなら恐らく好きだろうという、「振り切った純粋ホラー」を紹介しようと思う。
死霊のはらわたII
サム・ライミ/1987年/アメリカ
貞子vs伽倻子
白石晃士/2016年/日本
夜葬(角川ホラー文庫)
最東対地/2016年
この3つには共通してオススメしたい理由がある。それは圧倒的スピード感と詰め込み感だ。『死霊のはらわたII』は一作目と重なる部分をざっと流して主人公と悪霊の戦いにシフトする手法が鮮やかだし、『貞子vs伽倻子』もキャラの知名度を逆手に取って説明時間を節約、詰め込み過ぎじゃないかというぐらい多様な「ホラーあるある」で攻めてくる。『夜葬』は独自の設定「どんぶりさん」の恐怖と、有無を言わさぬ怒涛の展開、そして結末の後味の悪さは折り紙付きなので、書店にあればぜひ読んでみてほしい。どれも不謹慎な部分で笑ってしまうこと請け合いだ。
「恐怖=笑い」がホラー界のマッチベター
最初に書いたように「緊張の緩和」は2代目桂枝雀の言説だ。それは怪談噺と滑稽噺を一緒にこなしている落語家ならではの着眼点だったのかもしれない。笑いとホラーは不可分で、だからこそ、どちらかを突き詰めれば円のようにもう片方が姿をあらわすものなのだろう。
飴村作品は、本人がインタビューで話した通り、「自分が読みたいホラー」を書いた結果の作品だ。決して狙ったものではなく、天性のセンスとホラー好きが合わさって、前人未到の「恐怖の先」を作ったと言っても過言ではないだろう。それが「恐怖=笑い」という式を体現せしめた理由ではないかと思う。
まさにホラー界の革命児と言える飴村行がいかにして形成されたかは、エッセイ『粘膜黙示録』を読んでいただきたい。これひとつでもかなり壮絶な物語だ。そして、笑える。
長々と駄文を書いてしまったが、読者の皆様が少しでも興味を持っていただけたなら幸いである。
ホラー信じられない勉強になる
この記事を書いた人
坂根 迅(サカネ シュン)
ライター
広島県出身、東京在住。
某演劇学校を卒業、小さい劇団を旗揚げ。脚本と演出のかたわら、フリーのライターとして細々と活動。得意分野はそのまま小劇場、演劇、そして小説と映画。
好きなジャンルはホラー、コメディ、ミュージカル。サブカル系なら割となんでも。
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