去年の夏、東京国立博物館にて行われた縄文特別展を見たとき、行列ができるほどの盛況ぶりで、縄文時代に対する世間の関心の高さを感じました。
青森市出身の筆者は、特別史跡「三内丸山遺跡」で知られる三内の里山で子供時代を過ごしました。本格的な発掘調査がされる前の三内丸山遺跡は何もない野ざらしの山でしたが、地面を少し掘れば簡単に土器片が出てくる場所だったため、よく土器を探して遊んだものです。
このような環境で育ったこともあり、縄文に対する少々ノスタルジックな想いを胸に、博物館を訪れました。
混雑する館内では、展示品を観察しながら皆それぞれに感じたことを話していました。しかし、聞こえてくる話にどうしても気になる点があります。それは、縄文時代の漆器を見た人々が「ウルシの木がたくさん生えていたんだろうね」と話していたことです。
実はこれは誤解であり、植物学的にいうと元々日本の山にはウルシの木が自生していなかったと考えられています。残念ながら、その場ではそこまで踏み込んだ解説が見当たらず、誤解したまま人の波が流れていきました。
普段から縄文に関する本を読んでいる筆者にとっては、それがずっと引っかかっていて、どうしても語らずにはいられません。このような背景を基に、本記事では縄文時代に関するさまざまな考察や想いを綴ってみたいと思います。
縄文人は「豊富な植物の知識」と「高い技術」を持っていた
縄文時代は長い間「狩猟採集生活」といわれてきました。しかし、現在では三内丸山遺跡の発掘調査により、大規模な集落に定住し、栗、豆、穀物、ウルシなどの多様な植物を計画的に栽培していたことがわかっています。植物は食べるためだけではなく、建材や農耕道具、衣類や袋状の編み物など、さまざまな用途に使われていました。
三内丸山遺跡では、今から約5000年前の縄文人の暮らしを詳しく見ることができます。DNA分析によって栗の栽培をしていたことが明らかになり、縄文人の暮らしぶりは我々が思っている以上に文化的なものだったと考えられるようになりました。
これは、縄文時代に対する従来のイメージを大きく変える出来事です。縄文人は、森の植物に関する知識も相当なものだったのではないでしょうか。資源としての植物であっても決して必要以上に取りすぎることはなく、村周辺の木々を管理しながら自然と共に暮らすスタイルは、大量消費社会に暮らす我々現代人が見習うべき知恵があるように思います。
縄文人は植物を利用して文化を形成
縄文人は森の植物を利用することで、土器や土偶以外にもさまざまな文化を生み出していました。日本列島の各所に点在する縄文遺跡からは、漆器も多く出土しています。
遺物はとてもデザイン性が高く、髪飾りやお皿、土瓶など、見れば見るほど縄文人の感性の高さをうかがわせるものばかりです。筆者も博物館で現物を見てきましたが、まるで現代の工芸品のような雰囲気さえありました。
近年は縄文人の植物利用に関する調査が進んでおり、研究結果は各種書籍で読むことができます。書籍によれば、触るとかぶれることもあるウルシの木は扱いが難しく、利用するには専門的な知識が必要だそうです。そのため、縄文人の中にもウルシの知識を持った人間が専門に取り扱っていたと考えられています。
しかし、冒頭で述べた通り、植物学的に見ると「日本の山にはウルシが自生していなかった」のです。当然のことながら、土器も漆器も原料がなければ生産できません。元々日本の山にウルシの木がなかったのであれば、縄文時代の人々はどのようにしてウルシを手に入れていたのでしょうか。
ウルシの木は日本原産ではなく中国が起源
ウルシの原産地は主に中国、インド、チベットなど、アジア大陸が中心となっています。学術論文『縄文時代のウルシとその起源』によると、2000年から2010年にかけて、植物の専門家により日本のウルシ分布についての調査が行われたそうです。
調査の結果、日本列島では自然林や雑木林にウルシの木は認められず、ウルシの木は人の手が入った里山でのみ確認されています。そのため、日本の森に生息する本来の構成種とは考えにくいのです。北海道の網走市で確認されたウルシの木などは、かつて会津藩が植えたものの名残だといわれています。現在でも、日本で利用されるウルシは97%が中国からの輸入に頼っている状態です。このような事情から、日本のウルシは“人が植えたもの”という可能性が非常に高いと考えられます。
また、ウルシのDNA解析によって、日本産、中国産、韓国産のものはすべて一つの系統群であることが判明しました。この結果、原産地は異なっていても分類的には同一種といえるでしょう。多くの植物学者が「ウルシは中国辺りから渡来したもの」と考えています。韓国産のウルシは日本と同じく人が植えたのちに野生化したものであり、隣の中国から伝わって根付いたとされています。
これらのことから、日本のウルシの葉緑体DNAと同じハプロタイプを持つ中国遼寧省、山東省周辺のものが人によって持ち込まれたと考えられるのです。
縄文時代に大陸と交易が行われていた可能性がある
続いては考古学的な視点から見てみましょう。
先述した学術論文をさらに読み込んでいくと、日本で一番古い漆器は、縄文時代創世記に作られた約9000年前のもの(北海道函館市垣ノ島B遺跡より出土した漆塗りの副葬品)。しかし、その時代に日本海を渡って交流があったという証明はありません。
それに対して、中国で出土した漆器は約7600年前のもの(浙江省の跨湖橋で出土した弓といわれる木棒)。日本のほうが歴史は古いですが、原材料があっても、利用する知識と技術がなければ意味がないでしょう。とすれば、原材料とウルシ塗りの技術がセットで伝わったと考えなければ不自然です。
ここで大きな矛盾が生じます。原料は大陸産なのに技術は日本のほうが古いとなると、辻褄が合わず、非常に謎です。縄文人は船による交易を広範囲に行っていたことがわかっていますが、広範囲といってもそれは日本国内の話。大海を越えて外国まで遠征するのは命がけの行為であり、そう簡単にできることではないでしょう。この点については、現在も調査・研究が進められています。もし中国でさらに古い時代の漆器類が見つかれば、1万年近くも前の日本と大陸の交流が証明されるかもしれません。
日本と大陸における交流の解明が、縄文文化の謎を解くカギ
高度な植物利用によって非常に個性的な文化を生み出し続けた縄文人たちは「ウルシ塗り」という、現代に受け継がれている“工芸”を高いレベルで実現していました。
しかし、先に述べた通り、原材料であるウルシの木はアジア大陸が原産地で、日本の自然林には生えていなかったと考えられています。もし事実だとすると、日本の森には自生しない植物をどうやって手に入れていたのでしょうか。
これについては「ウルシは国外から入って来た」としている植物学的視点がキーポイントになります。今後さらなる調査と研究が進み、文字による記録が残っている時代よりもずっと前の世界で、日本と大陸との交流の様子が明らかになることが期待されているのです。もしそうなれば、我々の想像をはるかに超えた縄文文化像が見えてくるでしょう。